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ご飯を私の分だけ作ってくれませんでしたね

デス書き込み

私が、父にいくら怒鳴られようが、殴られようが
一切助けてくれませんでした。母は、いつも
“お父さんを怒らせるな。”と怯え泣いている私に向かって冷たく言い放ちました。
ご飯を私の分だけ作ってくれませんでしたね。
最後に会ったとき
私の娘が産まれて最初の言葉は、”大丈夫かな?こんな不細工やったけ?赤ちゃんてもうちょっと可愛いはずやのに”でした。
娘の前で、”ほんまに全然言う事聞かへんな。あんたがダメな母親やから、子供に舐められてるんやで。子供に舐められて恥ずかしくないん?”と娘まで悪く言い出したので、終わりだと思いました。
流産で、一時期帰省していた時も、娘に冷凍食品ばかり食べさせるから、まともなご飯食べさせてやってって言ったら、”そんなん知らんわ。よう作らんわ。自分でして”って言ったきり、昼ごはんも用意してくれなくなりましたね。
私は、手術後お腹が痛いのを我慢して、一キロほど娘をつれて歩いて、パンを買いに行ってました。体調が悪いけど、もう旦那のもとに帰ることにし、最初に食費として3万渡していましたが、最後レシートで私と娘に使った金額を蛍光ペンでハイライトにして、今まで使った分やからと言って渡してきたのには、旦那も私も開いた口が塞がりませんでした。
わたしが子育てしてきて、自分で学んだ事は、
子供は、大人同様にその意思を尊重すべきで、
操り人形ではないという事。
わたしが子供のころ、あなたの言いなりにならないと愛をくれませんでしたね。条件付きの愛情でした。私が、大学の時、食費や生活費を全く仕送りしてくれず、食べていく為、夜も働いてました。食費がたりず、たまたまI万借りた同僚がお金を返して欲しいと実家に連絡した事を母は、私に裏切られたと言って、冷たく当たるようになりました。妹は、自分の思い通りに育ったから、子育て成功したから、可愛い。でも、母にとったら、私は失敗作なんでしょう。
私も必死で生きてきたつもりですが、同じように愛されたかったです。
私はまるで、あなたの叶えられなかった夢を実現する操り人形のようでした。
海外で成功し、通訳になり、白人と結婚する事。私は、英語なんて一切興味ありませんし、外人大嫌いです。
自分の人生を取り戻すため、縁切りました。もう干渉され無いと思うとホッとします。
ちなみに、私は、親のせいで、13歳の時に心身の健康を失い、過敏性腸症候群という病気になりました。その後20年以上にわたり、深刻な症状に悩まされてきました。あなたのお子さんがそうならないようにどうか、たくさん愛してあげてください。育ててやったんだから、感謝しろと何度も言われましたが、感謝したいと思えないのであれば、そういう育てられ方だったということに尽きます。自分の人生を破壊した人にどうやって、感謝するんでしょう。
また、私のいないところでは、私の悪口を言い、妹がいない時には妹の悪口を言い、父が居ないところでは、父の悪口を言うそういう人でした。あなたには、本当の友達もいなかったですね。
当たり前です。あなたには、真心がありませんから。
今、私は最高に幸せで充実した毎日を過ごしています。さようなら。早く死んでください。
あなたの茶番には一切もう付き合いません。

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